海野宿は東御市本海野にある北国街道の宿場町です。
国道18号の西側にある河岸段丘の下に宿場街があります。
東御市内には田中宿もありますが、今も宿場としての趣を色濃く残すのは海野宿になります。
海野宿の歴史は古く、奈良時代に海野郷と呼ばれ、東信濃を支配した滋野一族宗家である海野氏の支配する地域でした。
海野氏のお膝元である当地は大いに栄えます。
海野氏の一族離散後も重要な街として、栄えました。
戦国末期、武田家の力が衰えると、海野氏の子孫である真田昌幸(幸村の父)は上田地域で独立。
1583年に上田城を築き本拠地とします。
昌幸は自分らが海野氏の後継者である事を示すため、海野宿一帯の住民や寺院を上田城下に招き、住まわせました。
これが上田市にある『海野町』です。
以降、残った町は今の名である『本海野』となりました。
江戸幕府が成立すると、街道と宿場の整備がなされます。
初めに田中宿が置かれ、1625年にあいの宿として海野宿が置かれました。
この期間は田中宿が主の宿場であり、海野宿は補助の宿場でした。
江戸時代中期の1742年8月。大きな洪水(戌の満水)が発生して、田中宿が壊滅的な被害を受けます。
そこで、被害の少なかった海野宿に本陣などを移して本宿として機能させます。
以降、幕末まで田中宿にかわり、重要な街としての地位を回復したのでした。
明治になると、宿場町としての機能は失いますが、その広い家屋を生かして養蚕が行われました。
養蚕はとても盛んになり、家屋の屋根に気抜き屋根を持つ建物も多くなり、旅籠屋と蚕室造りが揃う、珍しい風景を持つの海野宿が完成しました。
養蚕が衰退しても、この街並みは維持され、昭和61年には『日本の道百選』に選ばれます。
翌62年には『重要伝統的建造物群保存地区』の選定を受け、今もこの風景を保存しています。
海野宿の更なる歴史の詳細を知りたい方はこちらのHPへどうぞ
→海野史研究会(外部リンク)
2015年2月4日 花岡武彦 執筆
2015年8月15日 訂正・加筆・写真追加